小倉(仮名)の住むアパートには、隣の部屋に住人がいる。だが、その姿は一度も見たことがなかった。
物音はまったく聞こえず、宅配便が届く気配もない。
生活している様子が、どこにも感じられないのだ。
唯一、人の存在を感じさせるのは、
ベランダ越しに見える一枚の大きなシャツだった。
それは、あるときは干されていて、あるときはなくなっている。そのサイクルだけが、「誰かがそこに住んでいる」ということをかろうじて示していた。
どうやって暮らしているのかまったく見当がつかず、小倉は次第に隣人に対して得体の知れない怖さを感じるようになっていた。
そんなある夜、小倉は妙な夢を見る。
夢の中で、小倉は隣人の部屋の前に立っていた。
軽く息を整え、ドアをノックする。
「すいませーん。ちょっとだけ話しませんかー。」
返事はない。
何度ノックしても反応はなく、しびれを切らしてドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
扉を開けた瞬間、生ぬるく湿った空気が流れ出す。
どこか、手入れのされていない水槽のような、鼻に残る匂いがした。
そのまま何かに引き寄せられるように、小倉は部屋の中へ足を踏み入れる。
室内はサウナのような蒸し暑さに包まれていた。
それに対抗するように数台の扇風機やクーラー、さらには扉を開放した冷蔵庫までが置かれているが、どれもまともに機能していない。
また、床には子どもの遊びに使うような着せ替え人形や、成人向けの本が雑然と散らばっていた。
一方で肝心の住人の姿はどこにもない。
すでに部屋を引き払ったのだろうか。
そう思いながらトイレの前を通り過ぎる。
その瞬間、先ほどよりも明らかに強い熱気が体にまとわりついた。
小倉は悟った。この異様な暑さの源はトイレであり、その中に誰かがいる。
額から流れる汗を拭いながら、小倉はトイレのドアに手をかけた。ここもまた、鍵はかかっていない。
ゆっくりと扉を開くと、
焼けつくような強烈な熱気が一気にあふれ出した。
そして、そこにいたのは——
トイレの空間を埋め尽くすほどの巨体を持つ男だった。
足元には、使い終わったトイレットペーパーが山のように積もっている。
男は小倉の存在に気づいているはずだが、特に視線を向けることもなく、荒い息のままつぶやいた。
「はぁ、はぁ……暑い…苦しい……。まだ足りない……。」
トイレットペーパーを引き出しては汗を拭き、そのまま床に投げ捨てる。それを繰り返しながら、ただひたすらに何かをこらえているようだった。
——ここで、小倉は目を覚ました。
翌朝、ゴミを出しに行ったとき、たまたま管理人と顔を合わせる。小倉は思い切って、隣の住人について尋ねてみた。
だが、質問を聞いた途端、管理人の表情がわずかに曇る。
そして何も答えないまま、小さく会釈だけして、その場を足早に去っていった。
その出来事以降、大きなシャツでさえ、
確認することはできなくなったという。