夢の中でA氏は「自宅の寝室で寝ていたところ、2階からの物音で目覚めた」ということになっていた。
2階へ行くのは気が乗らないが、後々何かあっても嫌なので確認をしに行くことにする。眩しさで目が冴えるのを避けるため、A氏は電気をつけず、手探りで手すりを掴みながら階段をのぼる。そのせいで階段の端に積み重ねていたチラシの山をうっかり蹴散らし、階段に大量のチラシが撒き散らかされた。
またやってしまった。そう思い、A氏は大きくため息をついた。片付けるのは面倒くさいので、明日の朝にまとめて片付けようと、A氏はチラシを放置してそのまま2階へあがる。
2階へ着くとなぜか天井が無く、代わりに星空に囲まれた光彩な満月があった。そしてその月光は、家にないはずのグランドピアノを照らしていた。
また、ピアノ椅子には見知らぬ少年が腰掛けており、不器用な手つきでピアノを奏でていた。物音の正体はこいつか。A氏の頭には怒りがこみ上がってきた。
「おい、うるさいぞ。寝られないじゃあないか。」
A氏はぞんざいな口調で少年を叱りつける。しかし、少年は演奏をやめないどころか、こちらを見向きもしない。明日は朝から大事な会議があるのに、こいつのせいで寝不足になりそうだ。A氏は段々と腹が立ってきて、次は声を荒らげて言った。
「おい!やめろと言っているんだ!この下手くそ!」
さらにA氏はピアノの脚注をスリッパで強めに蹴った。すると少年はようやく手を止め、やっとこちらを見ると言った。
「どうしました。貴方は私の演奏をいつも望んでくれているじゃありませんか。」
訳のわからない事を言う少年にA氏はもはや呆れていた。
「お前の演奏など誰が望むか。そもそもここは人の家だぞ。誰なんだお前は。」
それを聞いた少年は悔やむような嘆ずるような、複雑な表情を浮かべた。
「お忘れになられたのですね。もうこれで、私のことを覚えている方は一人もいなくなってしまいました。」
少年はそう言うと、どこかへ行ってしまった。ちょっと強く言い過ぎた。もう少し優しく叱ってやっても良かったかもしれない。A氏は一瞬そう思ったが、人の家に勝手にあがっていたことを思い出し、やっぱりあれで良かったと思い直した。
相変わらず夜空は、まるで銀河の中へ迷い込んだかと錯覚するほどに鮮烈な星の光で彩られていた。
やれやれ、ようやくこれで眠りにつける。そう思いながらA氏は1階の寝室へと戻り、布団に潜り込んだ。すると再び2階から、聞き覚えのある下手くそなピアノの演奏が聞こえ始めた。A氏はいよいよ頭にきた。どういうつもりでこんなことをしているのか。A氏の目はとっくに冴えてしまっていたため、とりあえず電気をつけることにした。
だが、スイッチを押しても電気がつかない。意味がないのに何度もスイッチを切り替えた。やっぱりつかない。ブレーカーが落ちたのだろうか。A氏は一旦あの憎たらしい少年に一言いってやろうと、寝室を出る。
しかし、寝室の外は消えていた。階段も部屋も、天井どころか空もない。ただの白い空間になっている。それはまるで、忘れ去られた記憶の一部を無理に可視化したかのように奇妙であった。どうすることもできなくなった真っ白い空間に、不器用なピアノの演奏だけが聞こえてくる。
その夢を見た翌日から1ヶ月もの間、A氏はピアノの音を聞くたびに謎の頭痛と目の充血に苛まれたという。